ねえ、泣かないで
ねえ、泣かないで優しい子。
今日もあの時間がやってくる。
夕方の六時から夜の十二時まで、きっかり六時間。
この一週間、一度だって間違ったことがない。
きっかり、六時間。
その時間をこの一週間苦痛のように感じてきた。
でも、本当に苦しんでいるのは俺じゃない。
今も、病室の中からこの世の物は思えないような悶え苦しむネエの声が聞こえてくる。
これが、あの、優しいネエの声なのか。
この一週間、何度も何度も疑った。
この地鳴りのような呻き声が、叫び声が、あの穏やかなネエの口から発せられているとは到底思えなかった。
でも、ここはネエの病室の扉の前で、ネエ以外の患者はこの部屋にはいない。
悲鳴の合間に、ばたばたと人が忙しなく動く音が聞こえる。
きっと医者や看護士さん達が、ネエのための処置をしているのだろう。
でも、もうそれがどれくらい無駄な徒労に終わるのか、医者達も薄々感づいているだろう。
この一週間、どんな薬もネエの苦痛を抑えることはできなかった。
何をしてもネエの症状を抑えることはできなかった。
ある日、ネエの処置で疲れきった医者が、俺の前で口を滑らせた。
「もう、死んでもおかしくないのに」
医者は自分の失言にも気付かずに俺の前を通り過ぎていった。
それは医者として、患者の家族の前で漏らすべき言葉ではなかっただろう。
だが、俺は怒りもしなかった。
ネエのこの呻き声を聞けば、ネエのこの状態を見たら、誰だってそう思うだろう。
でも、ネエは死ななかった。
毎日六時から十二時までネエは壮絶な苦しみを味わっているが、夜の十二時を過ぎるとまるで悪い魔法が解けたみたいに驚くほど安らかな眠りにつく。
本当に、ネエは何かに呪われているのではないかとすら思う。
前に一度ネエの病名を聞いたことがあったが、その長すぎる名前はそれこそ呪文のようにしか思えなかった。
ネエは小さい頃から体が弱かったのだそうだ。
それでも俺が小学三年生くらいまでは、普通に家で生活できていたのだ。
でも、この二年でネエの症状は一気に悪化した。
ネエは普通に進学していれば高校生の筈だった。
それなのに、他の高校生達がごく自然に持ち合わせている筈の生命力を、ネエはもう持っていなかった。
元々透き通るように白かった肌は青みを増し、ただでさえ細い手足は日に日に肉を落としていった。
ネエの病状が悪化していることは、子供の自分にも良く分かっていた。
親父もお袋も、そんなネエをすっかり持て余してしまい、最近は仕事の忙しさを理由に見舞いにも来ない。
俺はそんな親父とお袋が許せなかった。
ネエはたった一人ぼっちで頑張っているのに。
だから、俺がネエを守るんだ。
例え、何もできなくたってずっと側にいてやるんだ。
だってネエは俺のたった一人の姉なのだから。
突然、目の前の扉が開いて、見慣れた看護士さんが出てきた。
「やだ。強志君まだいたの? 駄目よ、もう十時じゃない。歩実ちゃんのことは私達に任せて、もうおうちに帰りなさい」
俺は俯いて何も答えなかったけれど、その看護士さんは急ぎ足で廊下を歩いていってしまった。
帰れる訳、無い。
だって、俺が帰ってしまったら、誰がネエを元気付けてやれるんだ。
医者や看護士さん達だって、ネエを励ますことだってできるかもしれないけれど、ずっと付いていて上げられる訳じゃない。
だから、俺がネエの側にいなきゃならないんだ。
一際甲高い金きり声が病院中に響き渡る。
一瞬、木造の病院が震えたような気がした。
いや、俺の眩暈かもしれない。
ふいに耳を押さえそうになる。
俺は両手に力を込めてそれを抑える。
駄目だ。
本当に苦しいのは俺じゃない。
こんなことで逃げ腰になっちゃ駄目だ。
ネエは、きっともっと苦しいのに、辛いのに違いないのだから。
ネエの叫び声は休み無く続く。
俺は、それに拳を握り締めて耐える。
俯いた視線の先には、ぼやけた廊下のタイルが見えた。
「ネエ、泣かないでよ。ネエ」
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