鏡魔
幸与う者に祝福を
仇なす者に呪詛を
私は貴方を映す鏡
けたたましく鳴り響く目覚まし時計の音で、僕は目覚めた。
頭がズキズキと痛む。やはり週の頭から飲むものでは無い。
昨日はまだ月曜日だと言うのに、同僚との付き合いで夜遅くまで飲んでいた。
目覚まし時計を止めようと、ベッド脇のサイドテーブルに手を伸ばすが、僕の手は何も無い空間を彷徨うばかりである。
何故だろう、ある筈の場所にサイドテーブルが無い。
仕方無く目を開けると、朝日が刃のように瞳に突き刺さってきた。
本来ならば尊ぶべき太陽の攻撃に数秒間耐えた後、僕は唐突な違和感に襲われた。
何処だ此処は。
だが脳が正常な活動を見せ始めるに連れ、その違和感は別に脅威に値しないという事が分かった。
僕はただ、ソファに寝ていただけだった。
何の事は無い。僕は昨日、普段使っているベッドでは無く、部屋の反対側の壁に据えられたソファで寝てしまっていたのだった。
どうりでサイドテーブルが無い筈だ。
僕はかなり泥酔していたらしい。
そう言えば、僕は昨夜同僚達と別れてから何処をどうやって帰って来たのか、まるで記憶に無い。
まあ、こうして無事に家に帰って来たのだから、特に何かあった訳でも無いだろう。ソファで朝を迎えたのは初めてだったが、一人暮らしの家では誰に文句を言われるでもない。
僕は緩々と立ち上がると、思い切り背筋を伸ばした。
体中から、気分とは正反対の小気味の良い音が鳴る。
矢張りソファで寝たせいか、体の節々が痛い。日頃の運動不足のせいもあるかもしれないが。
僕は大欠伸を一つ捻り出すと、ベッドの方へ足を運び、サイドテーブルへと手を伸ばした。
そして目覚まし時計のスイッチに触れた所で。
ぴたりと体を止めた。
当然の事だが、目覚まし時計は鳴き止まない。
後ほんの少しの力を入れて、目覚まし時計の上についているスイッチを押せば、この騒音は止めることができるのに、僕はそれをしようとは思わなかった。
何故なら、そんな騒音が問題にならなくなるくらいの大きな問題が横たわっていたからである。
そう、それは文字通り、ベッドの上に横たわっていたのである。
何故僕は、昨夜ベッドで寝なかったのか。
その答えが今、目の前にある。
ベッドの上に、人と同じ大きさの。
人形がいた。
人形が、「いた」?
その表現は間違っている。人形なら「あった」だ。「いた」と表現するならばそれは生物、それも動物でなければならない。
だがそのとき僕は、人形が「いた」と表現せざるを得なかった。
生人形、とでも言えば良いのだろうか。
ベッドの上には等身大のフランス人形が横たわっていた。
フランス人形、と表現したのはその服装からである。
純白のフリルをふんだんに使った真っ白な服は、その少女の肉体の一部のようだった。昨今、一部の若者の間で流行しているようなごてごてした飾りがついた服装なのだが、全体としてその調和を崩していない。
それは少女があまりにも端正な顔立ちをしていたためなのだろうか。
こういった洋服は、普通日本人のようなアジア系の顔立ちには似合わないと思っていたが、どうやらその認識を改めねばならないらしい。
少女は真っ白な洋服よりも更に白く透き通った肌をしていた。腰まで伸びた髪はその肌とは対照的に漆黒で、艶やかな光沢を有していた。
完全な白と黒のコントラストの中で、薔薇色の唇だけが、毒々しい程赤々と燃えている。
とても生きているようには思えない。
人間は何処か歪んでいるものである。
どんなに綺麗な女優も、どんなに可愛いアイドルも何処かが欠けている。右よりも左の目の方が少し大きいだとか、左よりも右の耳が上にあるだとか、人間ならそう言った不完全さは持ち合わせているのが普通である。
だが、この少女にはそう言った歪さが無い。
人間は不完全であるが故に人間なのだから、この完全で完璧な少女は人間である筈が無い。
だからこの少女は人形だ。
だが、この人形が人工物であるなどとは余計に考え難い。
こんな完璧なものを人間が作れる筈が無い。
ならばこの人形を作ったのは神以外には有り得ない。
そしてもしもこの人形を神が作ったのなら、生命を吹き込まずにはいられない筈だ。
突然、辺りが静かになった。
僕はその時初めて、今まで目覚まし時計が鳴っていたことに気付いた。
目覚まし時計が自動的に鳴り止むのは鳴り始めてから五分後だから、僕は五分近く少女に見蕩れていたことになる。
普段の僕からは考えられないことだった。
でも、この少女に限っては五分なんて時間じゃ全然足りない。
できるならば一日中眺めていたいくらいだ。
僕の意思とは無関係に、僕の右手が少女の方へと伸びていく。
頭脳はすでに思考を停止し、理性を麻痺させていた。より深く本能に近い衝動だけが今の僕を突き動かしていた。
視覚は驚くほど鋭敏なのに、その他の全ての感覚は麻酔を打った後のようにおぼろげで浮ついていた。
視覚だけがこの現状を現実だと認識し、視覚を除く全身がこれは全て夢なのだと訴えていた。
もう僕にはこれが夢なのか現実なのか判断がつかずにいた。ただゆっくりと伸ばされていく僕の右手だけが、この閉じられた時間の中で唯一動くのを許された生命だった。
後。数センチ、数ミリ。
中指が少女の唇に触れるか触れないかの間際に至った刹那。
パチリと少女の目が開いた。
僕は生まれて初めて悲鳴を上げた。
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